わいせつ規制について考えよう

 

我々は、発表にあたって、「表現の自由の規制」というテーマから、3つの論点を中心に扱うことにいたしました。

 1「わいせつ物の規制」

 2「裁判官の良心」

 3「青少年の健全育成」

 以上3つのテーマを2週にわたって取り扱いました。その報告をさせて頂きたいと思います。

 

 

1週目(1月10日)発表報告

 

「わいせつ物の規制 ~刑法175条違憲論~」  

 

 「えっちなのはいけないと思います」

 という言葉がありますが、「なぜいけないのか?」という疑問を感じたことはないでしょうか?

 「人を殺してはいけない」「ものを盗んではいけない」というように、世の中「やってはいけないこと」が沢山あります。今挙げた2つの例に関していえば、「殺されて」「盗まれて」困る人がいる、だから「やってはいけない」、ともいえるでしょう。つまり、「そういうことをすると困る人がいるから、やってはいけない」という理由付けです(もちろん、理由はそれだけではないでしょうが)。

 では、「えっちなこと」は何故いけないのでしょう? それによって困る人とは、誰なのでしょうか?

 これが1つ目の論点です。

 

 ところで、刑法175条という条文があります。

 

 刑法175条 

 わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。

 

 要するに、「わいせつなものを売ったり大っぴらに並べたりすると罰せられますよ」ということなのです。

 ところが、国民の皆さんはこの条文を見て、こう思うかもしれません。

 「わいせつって、何だ?」

 国は「わいせつな文書、図画その他の物」を世に出してはいけないというけれど、「そもそも何がわいせつで、何がわいせつでないんだ?」という疑問は、多くの人が抱くものではないでしょうか。

 憲法21条で「表現の自由」が保障される以上、たとええっちなものであろうとも、表現の一種なので、表現する自由はとりあえずは守られるはずです。

 仮に、国がわいせつな物を規制できるとしても、国民の側が「何がアウトで何がアウトでないのか?」がわからないと、国が好き勝手に表現物を規制できることになります。

 なので、「わいせつ」の内容をはっきりさせることは、国民の権利を保障する上でとても退治なことなのです。これが2つ目の論点です。

 

 以上をまとめると、

 1.「わいせつ」は、何故「いけないこと」なのか? 法で規制されなければならないのか? 表現の自由を制限するだけの根拠があるのか?

 2.「わいせつ」と「わいせつでないもの」の線引きはどうやって行うのか? 「わいせつ」を定義することはできるのか?

 という2つの問いが、今回の発表で議論したかったことです。これを通して、刑法175条が抱える問題についてフォーカスしようというのが、ねらいです。

 これらを議論していただくべく、架空事例(とある小説作品がわいせつ物だと認定されたケース)をベースに、上記の2つの問いについてゼミ生に考えていただきました。

 

 まず1の問いについて。

 ゼミ生からは

 「(不倫や強姦、近親相姦といった)過激な内容は、真似する人が出るからダメなのではないか?」

 →とはいっても、過激な性表現を見て、必ずしもそれを実際に行うというわけではないのでは?

 「子供に見せるのはNG(≒大人には見せても別に構わない)。一定年齢までは規制する」

 「規制できるのは、「他人に迷惑をかけるとき」だけ!(=表現が他人に迷惑をかけないなら規制する必要はないっしょ!)

 「(エロとかグロとか)そういうものを見たくない人の権利!」

 →でも、グロテスクな表現を規制する法律は今のところない! エロい表現は規制されている。その違いは何ぞ?

 などの意見が出ました!

 ちなみに判例は刑法175条の立法趣旨について、

・「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持すること」(チャタレー事件に関する最高裁判所大法廷判決 昭和32年3月13日)

・「性生活に関する秩序及び健全な風俗の維持」(悪徳の栄え事件に関する最高裁判所大法廷判決 昭和44年10月15日)

 という風に述べています。上のゼミ生の意見でいえば、一番上の意見に近いものだと言えるでしょう。

 ただし、「わいせつ物が本当に性道徳・性風俗を乱すものなのか」という点については不明確な部分も多く、意見の分かれるところだと思います。因果関係が「ない」とは言い切れませんが、「ある」とも言い切れない。「そんな曖昧な因果関係ではダメだ!」という主張も、「その程度の蓋然性でいいんだ!」という主張も、どちらもありえるでしょう。

 全体的には、判断能力の未熟な子供や、そういうわいせつなものを見たくない人だけを保護すれば足りるのではないか? という意見が、ゼミ生の間でも多かったように感じられました。

 

 続いて2の問いです。

 わいせつの定義について、判例では「わいせつとは徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と述べられています。

 そして、ある物が猥褻物に当たるか否かは、「社会における良識すなわち社会通念」によって判断され、「社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられている」と言うのです。

 この定義および判断基準に関してのゼミ生の意見としては、

 「これでよい。あとは裁判官が個別具体的に判断」

 「時代によっても変わるので、抽象的な定義でよい」

 「結局は社会的にどう判断されるかだ」

 「内容よりもどのような表現手段かを重視すべき」

 やはり「わいせつ」というのは曖昧で抽象的な概念であるために、これを詳しく定義するよりも、裁判官、あるいは社会の判断に委ねればよい、という意見が多かったように思われます。

 

 総括すると、刑法175条については、比較的多くの人がその在り方について疑問符を浮かべている様子でした。やはり現にAVやアダルト漫画が氾濫している現状があるだけに、175条の規定がそもそも機能していない、という印象を与えたのかもしれません。

 ちなみに、警視庁によりますと、平成23年度の175条の検挙件数は、1158件だそうです(「平成23年中における風俗関係事犯の取締状況等について」警察庁生活安全局保安局 http://www.npa.go.jp/safetylife/hoan/h23_fuzoku_jihan.pdf)。2000以上のビデオやDVDが摘発されているという事実を見ると、決して175条が機能していない、とまでは言い切れないのではないでしょうか。

 

 しかし重要なのは、「わいせつなものが世間に出回っている状況」が、そもそも悪いことなのかどうか、という点ではないでしょうか? そもそも、世に出回っている膨大な量の成人向けコンテンツが、摘発せねばならぬほどに社会の害悪になっているかどうか。個人の好き・嫌いや快・不快ではなく、より具体的にどのような害があるのかをはっきりさせる必要があるでしょう。

 個人的な感情として、そういうわいせつな物を見たくない、というのは自由です。しかし表現物をわいせつ物として規制するのだとすれば、それは表現者の自由を制約するものとなります。わいせつ物を規制しようと思ったら、「わいせつ物が誰にどんな迷惑をかけるのか」ということを考えないといけないわけです。

 

 結局、わいせつ物がもたらす害が何かについては、「そういうものを好まない人がそれを見た時に、不快な感情になる」ということくらいしか、はっきりと言えないのではないでしょうか。わいせつ物はその性質上、それを好まない人やはっきりと嫌悪する人がいるわけです。そういう人たちの、「見たくないものを押し付けられない権利」は、保護に値するものというべきでしょう。刑法175条も、そういった権利保護のための規定たるべきだと言えます。逆に言えば、それ以上は過度の規制になっちゃうのです。

 ただし、わいせつ物を見る側が子供になると、また別の問題が生じるのです。これについては2週目で扱う議論なので深入りはしませんが。

 

 結論としましては、

 1.「わいせつ」の定義、またその判断基準としての「社会通念」という概念は不明確であり、国民が「国が何を禁止しているのか」を判断できず、漠然不明確ゆえに違憲である。

 2.仮に明確化できたとしても、刑法175条は、他者を侵害しない場合にまで憲法21条の保障する表現の自由を制約するものであり、過度の広汎性ゆえに文面上違憲である。

 という形で刑法175条は違憲であると主張いたしました。

 本当はこの違憲論についても議論してほしかったのですが、時間の都合によって断念いたしました。残念無念また来年……。

 

(文責:松村)

 

[参考文献]

武田誠「わいせつ規制の限界」成文堂

長谷部恭男「テレビの憲法理論」弘文堂 24p~25p

「裁判官の良心・再訪」(樋口陽一編『国家と自由・再論』日本評論社289p~)

奥平康弘「憲法の想像力」p217~

南野森「司法の独立と裁判官の良心」(ジュリストNo.1400 2010.5.1-15)

「松文館裁判」 http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/9018/shoubun-index.html

 

 

2週目(1月17日)発表報告

 

「裁判官の良心」

 

 わいせつとは「徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」(チャタレイ判決)ことってなんやねんっ!そんなの裁判官に決められてたまるか!!

 そんな出発点。

 

 1年間のゼミでは中絶問題や戦争の話、いじめの問題など何か私たちの心の深いところをえぐってくる道徳観、正義観、価値観と法律が絡み合うテーマが多かったものですからあえて混乱するかもしれないなと思いつつも刑法175条違憲論から少し脱線気味で議論してみた次第です。

 

 76条3項裁判官の「良心」をきっかけに、「見ればわかる」というアメリカ合衆国のスチュアート判事の言葉など具体的な手がかりとして道徳と法について考えてもらいました。

 

 導入の問いかけ「裁判官の良心と憲法や法律はどのような関係にあるか?」という問いかけがまずかったのかゼミ生に混乱を与えてしまい(笑)

 印象としては一般人と裁判官の乖離なんてそもそもそんな存在しないしこんなこと話して実益あるの?って意見が大多数でちょっとびっくりしたのを覚えています。

 

 それでも「わいせつの事案のような法律文言だけでは判断できずどうしても裁判官が具体的に判断しなければならない時に‘社会通念’に従った‘合理的’な判断とはなんなのか」を問いてみると

・合理性の判断は多数派によるものだ!

・直感にも合理性はあるので理性と対立しないんじゃない?

・過去の判例などの判断を尊重しつつ時代の変化に伴う価値観の変化にも対応すべき

・裁判官の理性を突き詰めた軸を選ぶ

 などいろいろな意見を頂戴できました。

 

 裁判官が性道徳を考える際には社会通念に従わなくちゃいけないんでしょうか?それは多数派の性道徳観念なのでしょうか?

 少数者保護の最後の砦である司法権なのに?表現の自由は守られるべきなのに?

 

 自分の一意見としてはそもそも175条は性道徳を保護法益とする以上、具体的な事件が起きれば国家機関の一つである裁判所が性道徳そのものを判断することを避けられない。

 そう考えると国家が道徳を間接的にも押し付けているようにはならないか。性道徳を裁判官が判断するなんて本当にできるのか。疑問の余地があるなら175条は21条や31条に照らして違憲なのではないかという感じでした。

 

 裁判官は恣意的な判断しないで良心と憲法法律に従って判断してるよー!だって社会通念に照らしてわいせつ概念を判断しているからね☆

 これを鵜呑みして裁判官を信頼して任せきってしまうのはとてもこわいなって思います。

 

 今の日本は他国と比べても性に関する秩序が乱れている国と言われても強く否定はできずにどこか納得できやしませんか?インターネットではいつでも誰でも比較的容易に性表現を閲覧でき、書店などでも少々過激?と思われる出版物も散見されないわけではない。

 こんな決して良好な環境とは到底言えない現状だからこそこそわいせつ表現、性秩序について国民1人1人が考える必要があるのではないでしょうか。たしかに性に関することは大っぴらに議論するのはばかられるし性質上議論しにくいものかもしれない。

 しかしそれで放置すれば良くなるものでもないと思います。

 もし175条違憲論が認められなくても裁判官が真に合理的な判断をするためには社会通念の1部分である私たちひとりひとりが性道徳とは何か。どうやって築き上げていくのかを考えていくべきですよね。

 

 そんなわけで性道徳と法と裁判官について一緒に議論したかったわけでございました〜。

 

 そして菊井さんの過激な具体的ケースで実際に考えていただくことになります^^

(文責)石井

 

 

「青少年保護育成条例とわいせつ規制」

 

先週は、「わいせつ」の定義づけを中心に発表をしましたが、今週は「そもそもなぜ青少年にわいせつ表現を触れさせてはいけないのだろう?」という疑問をもとに議論を進めていきました。

 現行の制度では、青少年の健全な育成のために社会環境の整備を行い、健全育成を阻害するようなものから守るために、青少年保護育成条例が制定されています。これに基づいて、有害図書に触れさせないなどの施策がとられているというわけです。でも、実際私たちが書店に並ぶ本を手に取ると、いわゆる18禁指定の無いものでも際どい性描写や暴力表現が描かれているものを見かけたりしますよね。

 

 こんな矛盾を踏まえて、私たち発表班は以下のような設問について考えてもらいました。

 ①「健全」さを構成するのに必要な要素とは?

 ②健全育成のためなら、子供を有害図書に触れさせないという制約を行っても良いか。

 ③どの程度であれば制約は許されるのか。

 

まず①についてですが、性的・暴力的表現に触れたからと言って、性犯罪や暴力などに直接の因果関係があるとはいえない。そして、健全とはそれらの表現について知り、その善悪を判断できること、とする意見を多くいただきました。健全の原義を考えても、「表現が偏りなく存在している」ことは健全を育むうえでの重要な要素となるのです。

 

②③では、区別なく存在すべきだとした表現から子供たちを遠ざけるメリットとはなんだろう?という視点から考えていきました。中には全く規制をせず、個人の自由な判断に任せればいいのでは?という過激な意見もありましたが、ゼミ生からの意見の中でもとりわけ強調されていたのが、「パターナリズム規制」というキーワードです。これは青少年が発達の途上にある存在であり、色々な事について判断がきちんと行えないから、有害な情報から彼らを遠ざけてしまって良いという考え方です。

しかしその反面、性・暴力表現すべてを有害なものとして排除する事が正しいとは言えないという意見も共通して見られました。近年ではインターネットの普及で更に様々な情報に触れられるようになり、過激な性描写(強姦や性犯罪)や暴力を描き、礼賛するようなものにさえ簡単にアクセス出来てしまいます。そんな情報氾濫の中で、「極端かつ理想的な健全」を押し付けるのではなく、メディアリテラシーを養うために例えば学校で性教育などを行っていくことが大切なのではないでしょうか。

 

 今回の発表を通じて、時代の流れによって人々の情報との接し方もどんどん変化している事を改めて実感させられました。一昔前であれば、河原で拾ったわいせつな本を見て色々な想像妄想を膨らませていた、というような風景がありましたが、現在では外に出なくてもクリック一つで画像だけでなく動画まで見られてしまう環境に私たちは置かれています。インターネット上での有害表現に関する規制の限界が、ここに表れていると言えるでしょう。

そこで私たち発表班としては、個々人間の関係性が希薄になっている今、国が一方的に「健全であれ」と制約を行うのではなく、地方自治体やわいせつ表現を出版する側、さらには市民間のコミュニティに所属している全体で青少年の健全な育成を図っていくことを本問の解決法のひとつとして提示します。

他に自主規制という手法も考えられますが、これではより安全な方に流れがちになり、健全さが失われてしまうために、あくまでも「すべき」という義務化ではなく「も、あるべき」という努力目標としておきたいと思います。

 

私を含む今の若者たちは、メディアの発展に伴って様々な既成表現に触れ、楽しみ、情報の受け手として振る舞いがちです。しかし、自分の意見をしっかり持ち、後に送り手側になるのだという意識は低いのではないでしょうか。だからこそ、情報の流布の中でそれらを取捨選択していく力を育てていくことについて、一人一人が改めて考えていこうと言いたいです。

 

非常に長くなってしまいましたが、今回の発表報告は以上とさせていただきます。(個人的にはまだまだ語りたりない所もありますが(笑))

普段日常生活の中で、わいせつ表現について考える機会はほとんどなく、しかもそんな話をする事自体が若干タブー視されているような雰囲気もあったので、ゼミでこのテーマを扱い議論が出来た事、またBL漫画を参考資料としてゼミ生と共有するという貴重な体験が出来た事など、とても興味深く楽しい発表をさせて頂き感謝感激しています。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました!来期からはついに後輩と一緒に発表をするということで緊張もしていますが、楽しく鋭く様々な問題に切り込んでいきたいと思います!

 

(文責:菊井)

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    sex telefon (金曜日, 03 11月 2017 23:02)

    niepodśmierdujący